東福門院和子とファッション


昨日7月17日は東福門院和子(徳川二代将軍秀忠の五女)が後水尾天皇の女御として入内した日だそうです。(正確には1620年の旧暦6月18日)

宮廷のファッションリーダー・東福門院和子

東福門院和子は、後水尾天皇の中宮であり、江戸時代初期の宮廷のファッションリーダーでした。

身の回りを飾る着道楽で有名で雁金屋(尾形光琳・乾山兄弟の実家)という京都の高級呉服商を贔屓にしていました。

雁金屋は2代目・道柏が近江の浅井長政の家来筋であり、長政の3人娘である淀君、京極高次夫人、徳川秀忠夫人江(東福門院和子の生母)などに引き立てられて高級呉服商になったそうです。

最大の顧客であった東福門院和子が亡くなると、雁金屋は大名貸しに手を出し、回収不能が重なって没落します。この没落が尾形光琳の困窮に繋がり、光琳が生活のために絵を描き始め、今日国宝・重要文化財として扱われるものが生み出されるきっかけになるのですから歴史の流れとは本当に不思議なものだなあと感じます。

安土桃山文化と尾形光琳

光琳の芸術的才能を培った要因の一つとして、幼少の頃から彼が実家で一流の衣装に触れていたことがしばしば指摘されます。東福門院和子の注文した商品も目にしていたのではないでしょうか。

東福門院和子は大伯父が織田信長であり、伯母(淀君)が豊臣秀吉の側室でした。東福門院和子の奇抜で華やかなセンスは、そのような人脈から安土桃山時代の一流の美に触れられたからではないかと思われます。

信長・秀吉の美意識が光琳のセンスに繋がったというのは私の想像ですが、光琳の作品の華やかさ・ダイナミックさを見ているとそんなに見当違いではないのではないかと思うのです。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする