江戸太神楽


先日、丸一仙翁社中による「江戸太神楽」を六義園で見ることができました。

「江戸太神楽」は400年の歴史を持つと伝えられる、獅子舞と曲芸を中心とした大衆芸能です。傘の上で鞠を廻す曲芸等が有名ですね。

2016年5月29日 於六義園

2016年5月29日 於六義園

2016年1月3日 於後楽園

2016年1月3日 於小石川後楽園

江戸の太神楽

太神楽の起源は神社に伝わる「散楽」という芸能と言われています。散楽は奈良時代に大陸から伝来したと考えられており、太神楽の他にも能楽や歌舞伎の起源になりました。

「江戸の太神楽」の元祖は尾州熱田(現代の愛知県)とする説と伊勢(現代三重県)とする説があります。私が今回拝見した「丸一」は江戸時代から続く太神楽を代表する屋号の一つで、熱田派に属すそうです。

江戸初期に伊勢や熱田の御師(おんし)等が家々を廻り、獅子舞による悪魔払いと余興芸を演じたのが「江戸の太神楽」の始まりです。「獅子舞」「曲芸」「話芸」「鳴り物」の4種で構成されます。

江戸時代末期になると急激に増えた寄席での芸人不足を補うため太神楽が色物として出演するようになりました。

戦後各戸巡りが激減し、現代は寄席や舞台、イベントを中心に活動していらっしゃるそうです。

昭和55年2月21日、東京都の無形民俗文化財(民俗芸能)に指定されました。

「神のもの」から「人のもの」へ

日本だけでなく、他の地域でもそうですが、古来、芸能は神事と深く結びついており、それぞれのタイミングで「神のもの」から「人のもの」になります。

例えば、能楽は室町時代にもともと興福寺の庇護を受けていた観阿弥・世阿弥が、足利義満という世俗の権力者の庇護を受けることによって今に残る形に変化します。また世阿弥は当時の一級の知識人である二条良基の保護を受けたことにより能楽の芸術性を高め高貴な人々の鑑賞に耐えうる芸能にすることができたと言われています。

歌舞伎にしても、今回取り上げた太神楽にしても江戸時代の庶民の人気を得たことが今日まで残っている要因だと思います。

冒頭で、散楽は太神楽・能楽・歌舞伎の起源であると述べましたが、他にも平成の世まで残っていなくて私は認識していないけれども、散楽から派生した芸能は沢山あったのではないかなと思いました。

いけばなにしても当初は神仏に捧げるものでしたが、室町時代に将軍家を中心とした上流階級を楽しませるものに変化しました。

ダーウィンの進化論ではありませんが、芸能も世の中に合わせて変化をしていかないと、生き残れないのかもしれません。

【編集後記】

芸能を経済的な面で支えるものが「神」から「人」へと移ったが、次の段階はどんなものなのか考えてみました。答えは出なかったのですが、youtube等の登場で、人々が芸能にお金を払わずに消費するという新しい流れができてしまった気がします。

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