六義園に行ってきました。
地元でも旅行先でも庭園にはよく行きますが、六義園は手入れが行き届いているのがとても印象的でした。
よく手入れされた芝生や樹々の葉と濃いピンクのツツジのコントラストが非常に美しかったです。
また名のある庭園でも、池や川の水が濁ってしまっているのを見ることがあるのですが、六義園はそういったことも少なかったです。
六義園とは?
六義園は江戸前期の幕府重臣・柳沢吉保が自ら設計、指揮した庭園です。
元禄8年(1695年)、吉保は五代将軍・徳川綱吉より下屋敷として駒込の地を与えられ、7年の歳月をかけて「回遊式築山泉水庭園」を造り上げました。
六義園は造園当時から小石川後楽園とともに江戸の二大庭園に数えられていました。
六義園には吉保の文学的造詣の深さが反映されています。
庭園の名称は、「毛詩」の「詩の六義」、すなわち風・賦・比・興・雅・頌という分類法を、紀貫之が転用した和歌の「六体」に由来します。
庭園は中の島を有する大泉水を樹林が取り囲み、紀州(現在の和歌山県)和歌の浦の景勝や「万葉集」や「古今集」で詠まれた名勝の景観が八十八境として映し出されています。

六義園 八十八境 石柱五十五「指南岡」 (「志るへの岡」と当て字)

紀州の「吹上の浜」にちなんだ「吹上の松」の石柱。吹上の松は樹齢300年。
六義園と岩崎家
明治維新後、六義園は三菱を創設した岩崎弥太郎が所有し、昭和13(1938)年に東京市に寄付され一般公開されることになりました。その後、昭和28(1953)年3月31日に国の特別名勝に指定されました。
岩崎家が六義園を所有した時、庭園を修復すると同時に、岩崎家らしい建物もあちこちに作られました。その多くは焼失してしまいましたが、唯一明治時代の建物が残っているのが、「つつじ茶屋」です。(つつじ茶屋には沢山人がいらっしゃったので写真が撮れませんでした。)
柱と梁がツツジの木を使って作られている(内三本の柱はサルスベリの木)という非常に珍しい建物です。ツツジの木は非常に成長が遅く、柱として使えるような材木を集めるのは非常に難しかったと思われます。全体に老朽化が進んでいて、周囲を別の控え柱で補強しているそうです。
【編集後記】
六義園は紫陽花も有名ですが、今回はまだ盛りではなかったようです。次回は紫陽花の綺麗な時期に訪れたいと思います。