短夜(みじかよ・たんや)


夏至に関連した季語に「短夜」があります。

清少納言と短い夏の夜

清少納言はエッセイ『枕草子』の初段で夏の素晴らしい時間帯は夜だと書いています。

夏は夜。月のころはさらなり、闇もなほ、蛍おほく飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし

彼女の曾祖父・清原深養父は官僚としての地位は高くありませんでしたが、優れた歌人で次の歌を残しています。

夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ

(百人一首 第36番)

意味は「夏の夜はとても短いので、まだ宵だと思っていたら、もう明けてしまった。月が西へ傾く暇もなくて、いったい雲のどこのあたりに宿をとっているのだろうか。」といったところです。

女性の教育は家庭でされていた時代、清少納言が夏について書くとき曾祖父の歌に影響を受けていた可能性はとても高いのではないでしょうか。

夏至の夜は一番短い冬至のそれと比べると、約5時間弱も短いのです。

古代、夜は逢瀬の時間でもありました。そのため『古今集』や『新古今集』には、夏の夜の短さをかこつ歌が多いそうです。

「短夜」という言葉には、夏の夜の短かさと儚さを惜しむ気持ちがあらわれています。

「夜」への意識

今回、夏至について調べて気づいたのですが、私たち現代日本人は「夏至」は「一年で最も日が長い日」だと捉えているようです。どの本でも、HPでもそれに近い表現をします。「日」が出ているのはどれぐらいの時間なのか?という物差しで「夏至」を定義します。

しかし、「短夜」は「夜」もっと言えば「闇」を意識した言葉だと思うのです。

日本人は近代化によって照明を手に入れ、「夜」や「闇」を意識しなくても済む生活を手に入れました。便利で安全な生活を手に入れたわけですが、一方で「夜」「闇」を見つめ、その神秘性や儚さを味わう機会を失ってしまったのかもしれません。

2003〜2012年に「100万人のキャンドルナイト」という市民運動が行われ大きな反響がありました。夏至と冬至の夜、2時間電気を消すというのがその具体的な内容です。

この市民運動に反響があった理由はエコ意識の高まりを始めいろいろあると思います。

私は理由の一つは、現代日本人がいつでも人工的な「日」や「光」が提供される生活に便利さを感じつつ、疲れてしまったからではないかと思うのです。情報化社会で人間は幸せになれるはずだったのに、処理しきれない情報の津波に襲われ、かえってストレスになるように。

電気を消してキャンドルを灯すことで、「夜」や「闇」を意識し、「夜」や「闇」の中で自分や身の回りの人に向き合う時間が現代人にとっては癒しだったのではないでしょうか。

【編集後記】

江戸時代には清原深養父の歌を元に「夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 腹のいずこに 酒やどるらむ」という狂歌が創られました。

雅さが一気に消えましたね。でも気持ちはわかる気がします。

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