Kawaiiと茶の湯


昨日のブログでKawaiiの要素の一つは「未完成」ではないかと書いたのですが、茶道、といいますか千利休の美学でも完璧な美はベストではないとされているようです。

片耳の花入

安土桃山時代の茶道書に『南方録(なんぼうろく)』という本があります。

千利休の高弟である堺の南宗寺の僧・南坊宗啓が,千利休から授かった口伝秘事を書きとどめたもので、利休が確立した佗茶の理論と実践の入門書とされています。

この本に「耳を打ち欠いた利休の花入れに師の武野紹鴎が感心したエピソード」があります。

ある日、とある茶会に紹鴎や利休らが招かれました。道中ある店先で紹鴎は花入に目を留めます。ですが同道の人もあるので何も言わず、明日にでも取り寄せて茶会を開こうと思っていました。

明朝、人をやると既に花入れはなくなっていました。紹鴎が残念に思っていると、利休から花入を求めましたので、お目にかけたいと茶会の招きがありました。紹鴎があの花入であろうと茶会に訪れると、千利休はくだんの花入れの片耳を打ち欠いて出してきたのです。

紹鴎は利休の美意識に感嘆して、実は自分もこの花入れを見た時から、あまりに完璧すぎるので片耳を打ち欠いて茶席に用いようと思っていた。中立で利休が席を外した時に打ち欠こう、金槌も懐に用意してきていたのだと告げます。

完璧なものより少し欠けたものの方に価値を置くという利休の美意識がうかがえるエピソードです。

ただし、この『南方録』は大変有名な本ではあるのですが、南坊宗啓の実在が証明できないこと、記述の表現や内容から現代では創作の可能性が高いとされているようです。

Kawaiiと茶の湯

茶の湯の美もKawaiiも日本で生まれ世界で賞賛される美意識であるという点では共通していますし、「Kawaii」も完璧ではないものが美しいという美意識だと思います。

しかし、茶の湯の美しさとKawaiiは全くことなる印象を受けます。

何故なのか自分なりに考えてみたのですが、茶の湯の美しさは「完成したもの・成熟したものから何かが欠ける美しさ」なのに対しKawaiiは「完成・成熟に向かう途中の発展途上の美しさ」なのではないかと思いました。

つまり「完成・成熟から何かが欠ける美しさ」に対し「完成・成熟に何かが足りない美しさ」なのではないかと思うのです。

【編集後記】

Kawaiiと茶の湯について色々と考え調べていたら『わび、さび、かわいい 茶ガールの休日:一品更屋の現代茶湯』という本を見つけました。

表紙もかわいらしく、内容紹介を読んで魅かれるものがありAmazonで注文しました。

ただ「茶ガール」とか「スモ女」とか「歴女」等など、何故女性が伝統文化に触れようとするとジェンダーを絡めた「名付け」が行われるのか不思議だなあとは常々思います。

最近では「刀剣女子」というのもありますね。

世間がどう捉えようと楽しんだもの勝ちだと私は考えるようにしていますが…。

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